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劇場アニメ「ルックバック」公式サイトより

劇場アニメ『ルックバック』が描いた喜びと地獄「なぜ“作る”のか?」という問いへのアンサー

創作を仕事にする人。今まさに創作を仕事にするべく奮闘している人。
あるいは別に仕事を持ちながら、それでも創作を辞められない人。

そんな人々の中には、「ものをつくる」喜びと地獄に直面した経験のある人も多いはず。もちろん今まさにライターとして、この記事を書く筆者自身も例外ではありません。

創作は楽しい。作品への評価はニアイコール自分への評価で、褒められると自分が認められた気がして嬉しい。けれど、100人に誉められるよりも1人に貶された方が強く印象に残ってしまう。

一方で“認められたい人”からの嬉しい言葉には、どんな高評価も貶しも吹き飛ぶ強い力がある。
劇中で小学生の藤野が感じた喜びや悲しみは、多くの「ものをつくる」人にとって非常に既視感のある感覚だと思います。

そんな人々は、創作に大きな力があることも知っています。なぜなら誰あろう自分自身が、創作に人生を変えられた人間の一人だから。自分の作るものが、人の人生を変える。それは非常に嬉しいことですが、それがかならずしも良い方向に向かうとは限りません。

時として自分の作るものは、誰かを不幸にする刃物になる。それを真正面から受け止めると、精神的にも大きなダメージを抱えることになるでしょう。

創作は時に、人一人の人生を変える。しかし一方で基本的に、創作は直接的に人の命を救うわけでもなければ、生活になくてはならないインフラでもありません。創作は、エンタメは不要不急のもの。数年前まで世界中に蔓延した感染症の中では、そんな言葉が飛び交うこともありました。

元を辿れば「好きだから」という理由で、あるいは「自分が褒められるから」という、承認欲求を満たすために始めた創作。ですが時間が経つにつれ、そんな人々には好きだからこその苦しみや葛藤、そして創作を続けるがゆえの苦悩が積み重なっていきます。

好きだけど苦しい、好きだから辛い─それでも辞めないのはなぜ?

好きなのに苦しい。やりたいことだからこそ辛い。その板挟みの中で「好きなものを嫌いになる前に辞める」という判断は、客観的に見れば非常に賢明な判断です。ではなぜ、それでも作り続ける人たちがいるのか。その答えは、まさに映画で描かれた藤野と京本が過ごした時間のすべてに詰まっています。

言葉にしようとすると、とても難しいこの感覚。「好きだから続けてるんでしょ?」と尋ねられても、それを全肯定できない人もきっと多いでしょう。

好きか嫌いかと言われれば、確かに嫌いではない。筆者自身も“好き”というよりは、“向いている”という気持ちの方が大きいのが正直な本音です。その中で当然藤野の言う通り、イヤになることも面倒になることも、「自分はなんでこんなことをしてるんだ」とウンザリする瞬間も実際にたくさんあります。

しかし強いて言葉にするならば、喜びも嬉しさも恥ずかしさも、悲しさも悔しさも絶望も。普段の何気ないありふれた一瞬から、かけがえのない特別な感情まで。

自分の人生の多くの時間が、当たり前のように創作と共にあったから。なくなった所が想像できない。なくなったら、どうやって生きていけばいいかわからない。そんなところでしょうか。だからこそ、作中で描かれた“もしも”の未来でも、二人はそれぞれに絵を描く道を歩んでいました。

運命の出会いがなくとも、創作を手放すことはなかった藤野と京本。改めて考えるとそれは大きな希望で、そしてむしろそれこそが、「何があっても創作からは逃れられない」という最も恐ろしい、今作の提示する結末なのかもしれません。

原作マンガが話題になった時同様、多くの著名人やクリエイターからの絶賛の声も相次いでいる、劇場アニメ『ルックバック』。何かに情熱を燃やした経験がある人、特に創作に携わる人の胸を大きく打つ本作。「ものをつくる」人々が全身全霊を注いで作ったその物語が、これからもより大勢に広まっていくことを、創作に関わる人間の端くれとして願って止みません。

(執筆:曽我美なつめ)

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曽我美なつめ

音楽、二次元コンテンツ(アニメ/マンガ)を中心にカルチャーを愛するフリーライター。コロナ禍を経て10年ぶりにオタク・同人沼に出戻りました。全部宇髄天元のせいです。

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